[토시키 아오야마] 비틀스를 세계적인 밴드로 키워낸 매니저 브라이언 엡스타인이 사망했을 때 존 레논은 "우리는 지금 폭풍 속에 남겨진 배를 타고 있는 것과 같다."고 말했다.

쟈니즈 사무소의 쟈니 키타가와 사장이 9일 오후 4시 47분, 해리성 뇌 동맥류 파열에 의한 지주 막하 출혈로 도쿄 도내의 병원에서 사망했다. 87세. 미국 로스 앤젤레스 출신.

지난 6월 18일에 컨디션 불량을 호소하며 구급 반송되어 병원에 입원. 연일 소속 탤런트들이 대거 문병했지만 차도는 나아질 기미가 없었다.

통야 고별식에 대해서는, "쟈니의 자녀들인 탤런트들과 Jr만으로 거행하는 가족장으로 하겠습니다"라고 설명. 또 "지금까지 신세를 진 여러분에게는 헤어질 기회를 준비할 예정으로 하고 있습니다"라고 후일, 결별회가 예정되어 있다.

너무나 위대하고 유일무이한 카리스마였던 만큼 그의 죽음의 영향은 크고, "쟈니스 제국의 향후는 어떻게 될 것인가?"라는 소리가 여기저기서 들려 온다.

전후 최대의 아이돌 메이커로서 항상 제일선에 서있던 쟈니스 키타가와. 승려였던 부친이 포교를 위해 갔던 로스앤젤레스에서 태어났고, 1952년 한국 전쟁에서 미군의 일원으로서 한반도에 파견됐다 .제대 후, 미 대사관 군사 고문단에 근무. 62년에 처음 발굴한 그룹 "쟈니스"를 결성. 동시에 매니지먼트를 위해서 쟈니스 사무소를 설립했다.

당시만 해도 남자 아이돌에 대한 시선이 차가웠던 시절. 당초 판매가 시원치 않아 몸살을 앓던 시절도 있었지만, 그래도 노래 부르고 춤출 수 있는 남성 아이돌을 고집했고 결국 히트 상품들인 소년대, SMAP, 아라시 등 많은 톱 아이돌을 만들었다.

남자 아이돌을 고집하는 자니 씨의 스피릿은 SM 엔터테인먼트 창립자 이수만을 거쳐 현재 KPOP에서 진화한 형태로 계승되고 있다고 할 수 있다.

쟈니스 씨가 다룬 아이돌은 주요 데뷔 팀만 45조에 총 166명에 이른다고 한다. 쟈니스 사무소의 대약진의 비결은 자니 씨의 탤런트를 발굴하는 신과 같은 심미안에 힘입은 바 컸다. 쟈니즈키타가와라는 이름 그 자체가 전후 최대 메키키 (目利き 진짜를 알아보는 안목)의 대명사였다. "변성기가 오기 전의 남자아이의 사진을 보면 성인이 됐을 때의 얼굴을 알 수 있다나요. 그룹의 네이밍 센스도 그렇지만, 천재 프로듀서였습니다"라고 텔레비전 관계자는 말한다.

2011년에는 "가장 많은 콘서트를 연출한 인물" "가장 많은 No.1싱글을 제작한 인물", 2012년에는 "가장 많은 차트 1위를 차지한 가수를 프로듀스한 인물"로 기네스 월드 레코드에 인정을 받았고, 1974~2010년에 차트 1위를 기록한 싱글 중, 쟈니즈 씨의 프로듀스에 의한 곡은 무려 232곡에 달했다.

돈이나 명성에는 흥미를 나타내지 않고, 남성 아이돌의 프로듀스가 사명이라고 생각하며 그 스타일을 평생 바꾸지 않았다. 경영면에서는 누이인 메리 키타가와 부사장과 그 딸인 후지시마 줄리 부사장이 계속 지지해 왔다.

향후에는, 메리 부사장도 고령이기 때문에, 줄리 부사장이 후계자로서 사장이 되어, 계속 경영을 담당할 것으로 보인다.

한편 쟈니 사장이 맡아온 인재 발굴, 쟈니스 Jr. 그룹의 명명과 육성, 데뷔 결정 등에 대해서는 쟈니 사장을 돕기 위해 지난해 말 탤런트를 은퇴하고 관련 회사인 쟈니스 아일랜드의 사장으로 취임한 타키자와 히데아키가 계승된다.

타키자와 히데아키 (滝沢秀明)

타키자와 히데아키는 경영이나 탤런트의 매니지먼트를 담당하는 줄리 부사장과 은밀하게 연대를 맺고 있으며 서로 궁금한 것은 항상 연락을 취하고 있다. "거의 매일 만나서 이야기를 하고 있습니다"라며 투톱 체제는 안정된 것으로 외부에는 보인다.

쟈니 키키가와는 생전 탤런트들에게 "이제 나의 시대가 아니다. (새로운 시대를) 만드는 것은 YOU들"이라고 항상 이야기하고 있었다. 전 세계를 매료해온 쟈니스 제국은 남은 자들이 물려받고 계승되지만 세대교체에 집안 소동은 뒤따르기 마련.

쟈니씨의 앞을 간파하는 신과 같은 천리안을 계승하는 것은 간단하지 않은 만큼, 레이와 시대는 쟈니스 사무소의 진가가 추궁 당하는 시대가 될 것으로 전망이 된다.

ビートルズを世界的なバンドに育て上げた敏腕マネージャー、ブライアン・エプスタインが亡くなったとき、ジョン・レノンは「僕たちは今、嵐の中に取り残された船に乗っているようなものだ」という発言をした。

ジャニーズ事務所のジャニー喜多川社長が9日午後4時47分、解離性脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血のため、東京都内の病院で死去した。87歳。米ロサンゼルス出身。

6月18日に体調不良を訴え救急搬送され病院に入院。連日、所属タレントが大勢見舞いに駆け付けたが、祈りは届かなかった。

通夜・告別式については、「ジャニーの子供でございますタレント達とJrのみで執り行う家族葬とさせていただきますので、何卒ご理解賜りたく存じます」と説明。また、「これまでお世話になりました皆様にはお別れいただく機会をご用意する予定にしております」と後日、お別れ会が予定されている。

あまりに偉大な唯一無二のカリスマだっただけに、死の影響は大きく、「ジャニーズ帝国の今後はどうなるのだろう?」との声があちらこちらから聞こえてくる。

戦後最大のアイドルメーカーとして、常に第一線に立ち続けたジャニーズ喜多川。僧侶だった父親が布教のために行ったロサンゼルスで生まれた。1952年、朝鮮戦争で米軍の一員として朝鮮半島に派遣された。除隊後、米大使館軍事顧問団に勤務。62年に最初に発掘したグループ「ジャニーズ」を結成。同時に、マネジメントのためにジャニーズ事務所を設立した。

当時は、男性アイドルへの目が冷たかった時代。当初は売れず苦しんだ時期もあった。それでも、歌って踊れる男性アイドルにこだわり続け、少年隊、SMAP、嵐など、多くのトップアイドルを生み出した。

歌って踊れる男性アイドルにこだわるジャニー氏のスピリットは、SMエンターティメントの創立者イ・スマンを経由し、現在、KPOPとして進化した形で継承されていると言える。

ジャニーズ氏が、手掛けたアイドルは主なデビュー組だけで45組、延べ166人に及ぶという。ジャニーズ事務所大躍進の秘訣は、ジャニー氏のタレントを発掘する神のごとき“審美眼”によるところが大きかった。ジャニーズ喜多川とは、文字通リ戦後最大の目利きの代名詞であった。

「声変わりする前の男の子の写真を見れば大人になった時の顔がわかるそうで、新規にグループをつくるときはメンバー同士の個性が最大限に発揮できるよう組み合わせていました。グループのネーミングセンスもそうですが、天才プロデューサーでした」とテレビ関係者は語る。

2011年には「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」「最も多くのNo.1シングルをプロデュースした人物」、2012年には「最も多くのチャート1位を獲得した歌手をプロデュースした人物」としてギネス・ワールドレコードとして認定された。1974~2010年にチャート1位を記録したシングルのうち、ジャニーズ氏のプロデュースによる曲はなんと232曲にも上った。

お金や名声には興味を示さず、男性アイドルのプロデュースこそが使命と考え、そのスタイルを生涯変えなかった。経営面は、姉のメリー喜多川副社長とその娘である藤島ジュリー副社長がずっと支えてきた。

今後については、メリー副社長も高齢のため、ジュリー副社長が後継者として社長となり、引き続き経営を担うとみられる。

一方、ジャニー社長が担当してきた人材発掘、ジャニーズJr.グループの命名や育成、デビューの決定などについては、ジャニー社長をサポートするために昨年末でタレントを引退し、関連会社「ジャニーズアイランド」の社長となった滝沢秀明が受け継ぐことになる。

タッキーこと滝沢秀明は、経営やタレントのマネジメントを担うジュリー副社長とは密に連携を取っており、「お互いに気になったことは常に連絡を取っている。ほぼ毎日会って話をしています」とツートップ体制は安定したものになりつつあるようだ。

ジャニー喜多川は、生前、タレントに「もうボクの時代じゃない。(新しい時代を)つくるのはYOUたち」と常々話していた。

世界中を魅了してきたジャニーズ帝国は、残された者に引き継がれる。引き継がれるが世代交代にお家騒動はつきもの。

ジャニー氏の先の先を見通す神のごとき千里眼を受け継ぐのは、簡単ではないだけに、令和は、ジャニーズ事務所の真価が問われる時代になりそうだ。